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中嶋常幸 ― 青木・尾崎と覇を競い、海外メジャーに挑み続けた「トミー」の挑戦

1980年代の日本男子ゴルフは、青木功・尾崎将司・中嶋常幸の3人の頭文字をとって「AON時代」と呼ばれました。最年少の中嶋常幸は、18歳で日本アマを当時史上最年少で制し、22歳で日本プロを獲り、年間8勝・史上初の1億円プレーヤーと記録を塗り替えていきます。海外メジャーでは1978年マスターズで1ホール「13」を叩き、同年の全英オープンでは17番のバンカーが「The Sands of Nakajima」と呼ばれるほどの悲劇も味わいました。それでも挑戦をやめず、1988年全米プロで3位、メジャー4大会すべてでトップ10入りした最初の日本人となります。そして50歳を過ぎてシニアで日本タイトルを獲り、アマからシニアまで前人未踏の「日本7冠」を達成 ― 失敗を糧に挑み続けた「トミー」中嶋常幸の物語を、年表と名場面で振り返ります。

中嶋常幸 ― 「Sands of Nakajima」の舞台、セントアンドルーズ・オールドコース17番ロードホール
中嶋常幸が『Sands of Nakajima』で痛恨のスコアを刻んだセントアンドルーズ・オールドコース17番ロードホール(1978年全英オープン)。奥に望むのはゴルフの聖地セントアンドルーズの街並み Scott Cormie / Wikimedia Commons (CC BY-SA 2.0)

キャリア年表

出来事
1954 10月20日、群馬県に生まれる。父・巌の英才教育でゴルフを始める
1973 日本アマチュア選手権を当時史上最年少の18歳で制覇
1975 12月、プロ転向
1976 ゴルフダイジェストトーナメントで国内ツアー初優勝
1977 日本プロ選手権を22歳の若さで初制覇
1978 マスターズ初出場 ― 13番で「13」、全英オープン (セントアンドルーズ) で17番「9」の悲劇
1982 初の賞金王。日本シリーズなど年間複数勝
1983 年間最多タイ記録の8勝をマーク。賞金王 (2年連続)
1985 史上初の年間1億円プレーヤーに。日本オープン初制覇、賞金王
1986 日本オープン連覇・賞金王。世界ランキング最高4位 (1986年)。全英オープン最終日最終組
1988 全米プロ3位 ― 自身のメジャー最高位
1990 日本オープン優勝 (3勝目)
1991 マスターズ10位タイ、日本オープン優勝 (4勝目)
2002 ダイヤモンドカップ・太平洋マスターズ優勝 (復活V)
2005 日本シニアオープン優勝 (シニア参戦)
2006 日本プロシニア・日本シニアオープン優勝。前人未踏「日本タイトル6冠 (アマ含め7冠)」達成
2006 太平洋マスターズ優勝 (51歳でレギュラーツアー V)
2017 スポーツ功労者文部科学大臣顕彰
2019 日本プロゴルフ殿堂入り

父の英才教育で腕を磨いた少年が、青木功・尾崎将司という二人の巨人を追いかけながら、国内・海外・シニアと舞台を変えて勝ち続けた生涯でした (日本ゴルフ殿堂)。

名場面: 1978年 ― 「13」と「Sands of Nakajima」、二つの悲劇

海外メジャーに挑み始めた1978年、中嶋常幸は二度、世界に名前を刻みます。ただし、それは栄光ではなく「悲劇」としてでした。

4月のマスターズ初出場2日目、アーメンコーナーの13番ホール (パー5)。第2打以降に小川 (ラエズクリーク) へ繰り返し打ち込み、最終的に11オン2パットの「13」を記録します。これはマスターズ史上1ホールのワーストスコアとして今も残る記録です (ALBA Net)。

そして7月、全英オープンの舞台はゴルフの聖地セントアンドルーズ・オールドコース。3日目、優勝争いに加わっていた中嶋は17番ホール (ロードホール) で、グリーン手前のパットがカップをオーバーして名物の深い「ロードバンカー」に転落。脱出に4打を要し、このホールだけで「9」を叩いて優勝の望みを断たれました。英国メディアはこのバンカーを一時「The Sands of Nakajima (ナカジマの砂場)」と呼んだほどでした (ja.Wikipedia 脚注より / Golf Digest)。

若き日のこの二つの大叩きは、本来なら選手生命を折りかねない屈辱です。しかし中嶋はここで折れませんでした。むしろこの経験を糧に、その後10年にわたって海外メジャーのトップ10に名を連ね続けることになります。

名場面: 1988年全米プロ3位 ― 日本人として4大メジャー全制覇に最も近づいた男

悲劇を乗り越えた中嶋の海外挑戦は、1988年8月のオクラホマ州オークツリー・ゴルフクラブで一つの頂点を迎えます。第70回全米プロ選手権です。

最終日、中嶋は72-68-71-67=278 (6アンダー) をマークし、単独3位でフィニッシュしました。優勝はジェフ・スルーマン (272)、2位はポール・エイジンガー (275)。中嶋は賞金7万ドルを手にし、これが自身のメジャー最高位となりました (1988 PGA Championship 公式記録)。

この3位がより光るのは、中嶋がマスターズ・全米オープン・全英オープン・全米プロの4大メジャーすべてでトップ10入りを果たした最初の日本人選手だったという事実です (日本ゴルフ殿堂)。マスターズ8位タイ (1986)、全米オープン9位タイ (1987)、全英オープン8位タイ (1986)、そして全米プロ3位 (1988) ― 当時の日本人として、これほど満遍なく世界の頂点に迫った選手はいませんでした。

世界ランキングでも1986年に最高4位まで上昇。「AON時代」の中で最も若く、最も海外メジャーで実績を残したのが中嶋常幸でした。

数字で見る功績

項目 数字 メモ
日本ゴルフツアー優勝 48勝 尾崎将司・青木功に次ぐ歴代3位
通算獲得賞金 (JGTO) 約16億6,495万円 JGTO公式・キャリア通算
賞金王 4回 1982・1983・1985・1986年
年間最多勝 8勝 (1983) 当時の年間最多タイ記録
日本プロ選手権 3勝 1977・83・84年
日本オープン 4勝 1985・86・90・91年
日本シリーズ 2勝 1982・93年
日本プロマッチプレー 3勝 1983・86・92年
メジャー最高位 全米プロ3位 (1988) 日本人として4大すべてトップ10入りした初の選手
世界ランキング最高 4位 (1986) OWGR創設初期
シニアツアー優勝 5勝 日本シニアオープン3勝・日本プロシニア1勝ほか

中嶋常幸の凄みは「勝った数」だけではありません。日本アマ (1973) → 日本プロ・日本オープン・日本シリーズ・日本プロマッチプレー (レギュラー) → 日本プロシニア・日本シニアオープン (シニア) と、アマチュアからシニアまで日本の主要タイトルを総なめにした、前人未踏の「日本7冠 (プロ6冠+アマ)」を達成した点にあります (日本ゴルフ殿堂)。青木・尾崎・中嶋の頭文字をとった「AON時代」は、日本男子ゴルフ黄金期の代名詞です (日本ゴルフツアーの通算優勝回数 (Wikipedia))。

人物像 ― 父の英才教育と、青木・尾崎を追った「トミー」

中嶋常幸は1954年、群馬県に生まれました。父・巌氏による徹底した英才教育でゴルフの腕を上げ、わずか18歳の1973年に日本アマチュア選手権を当時の大会史上最年少で制覇。アマチュア時代からその才能は際立っていました (日本ゴルフ殿堂)。

プロ入り後の中嶋を突き動かしたのは、先を行く二人の存在 ― 青木功と尾崎将司でした。日本ゴルフ殿堂のインタビューで中嶋は「追いかけ続けた青木・尾崎の存在」を最初に語り、さらに「青木に誘われてアメリカツアーに挑戦した」と振り返っています。世界の頂点に最も近いと言われた二人を追いかけ続けたことが、海外メジャーに何度も挑む原動力になりました (日本ゴルフ殿堂)。

海外では「Tommy (トミー)」の愛称で親しまれ、180cmの恵まれた体格と精密なショットで世界に存在感を示しました。1986年の全英オープンでは最終日最終組でプレーし、日本のゴルフファンを熱狂させています (日本ゴルフ殿堂)。

現役引退後はマスターズをはじめとする中継の解説者として、選手としての経験に裏打ちされた表現力で人気を博しました。2017年にスポーツ功労者文部科学大臣顕彰、2019年に日本プロゴルフ殿堂入り。選手・解説者・ジュニア育成と、形を変えて生涯ゴルフに尽くし続けています (日本ゴルフ殿堂)。

遺したもの ― 失敗を糧に挑み続けた背中

中嶋常幸のキャリアを一言で表すなら「挑戦をやめなかった男」です。

1978年、海外メジャーで「13」と「9」という、キャリアを終わらせかねない大叩きを立て続けに経験しました。多くの選手なら海外を諦めても不思議ではありません。しかし中嶋はそこから10年かけて、4大メジャーすべてでトップ10に入る日本人初の選手へと成長しました。失敗を恥として隠すのではなく、次への糧に変える ― その姿勢こそが最大の遺産です。

また、青木功・尾崎将司とともに築いた「AON時代」は、日本男子ゴルフが最も熱く、最も世界に近づいた黄金期でした。三人がしのぎを削った1980年代があったからこそ、後の丸山茂樹、そして松山英樹へと続く「世界で戦う日本人」の系譜が生まれたと言えます。

そして50歳を過ぎてからのシニアでの日本タイトル奪取により、アマからシニアまで日本の頂点を獲り尽くした唯一の選手となりました。一つの時代の象徴であり続けながら、生涯を通じて「現役」であり続けた稀有なゴルファー ― それが中嶋常幸です (日本ゴルフ殿堂)。

使用クラブ・関連アイテム

クラブセット
ブリヂストン (BRIDGESTONE) 契約モデル
AON時代を支えた国産ギア。日本のトッププロが世界に挑んだ時代の象徴的ブランド。
書籍
中嶋常幸 ゴルフ理論・解説本
マスターズ解説でも知られる「トミー」の言葉。プレーの深みを言語化した一冊を手元に。
ボール
ツアー使用 公認球
セントアンドルーズや全米プロで世界と渡り合った精密ショットを支えたツアーボールの系譜。
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よくある質問

中嶋常幸のメジャー最高位は?「全米プロ2位」では?

中嶋常幸のメジャー最高位は1988年全米プロ選手権 (オークツリー) の3位です。72-68-71-67=278 (6アンダー) で、優勝のジェフ・スルーマン、2位ポール・エイジンガーに次ぐ単独3位でした (公式記録)。よく「全米プロ2位」と言われることがありますが、これは誤りで、4大メジャーで2位以上はありません。ただし、マスターズ・全米オープン・全英オープン・全米プロの4大すべてでトップ10入りを果たした最初の日本人であり、これは2位以上に価値ある記録です。

「AON時代」とは?中嶋常幸はどんな位置づけ?

青木功 (Aoki)・尾崎将司 (Ozaki)・中嶋常幸 (Nakajima) の3人の頭文字をとった、1980年代の日本男子ゴルフ黄金期を指す言葉です。中嶋は最年少ながら、海外メジャーで最も実績を残し (4大すべてトップ10)、世界ランキングでも1986年に最高4位まで上昇しました。

「The Sands of Nakajima」とは何ですか?

1978年の全英オープン (セントアンドルーズ・オールドコース) で、優勝争い中だった中嶋が17番ロードホールの名物バンカーに捕まり、脱出に4打を要してこのホールで「9」を叩いた出来事に由来します。英国メディアがこのバンカーを一時「ナカジマの砂場」と呼びました。同年マスターズでは13番で「13」も記録しており、若き日の大叩きとして知られますが、中嶋はこれを糧に世界へ挑み続けました。

中嶋常幸の「日本7冠」とは?

日本アマチュア選手権 (1973) に加え、レギュラーツアーで日本プロ・日本オープン・日本シリーズ・日本プロマッチプレーの4タイトル、さらにシニアで日本プロシニア・日本シニアオープンを制覇。アマからシニアまで日本の主要タイトルを総なめにした、前人未踏の「日本タイトル7冠 (プロ6冠+アマ)」を達成しました。

/golfer/ に中嶋常幸のデータページはある?

現在は第一線を退いているため、試合結果やスタッツを自動更新する /golfer/ のデータページは作成していません (試合参加が無いため自動更新の対象外)。本記事が事実上の選手プロフィールページです。現役選手のデータは プロゴルファー検索 からご覧いただけます。

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出典・公式リンク

最終更新: 2026-06-04