1930 年 9 月 27 日、メリオンのギャラリーは歴史の証人になりました。この日、**ボビー・ジョーンズ**は全米アマチュア選手権を制し、同じ年に全英アマ・全英オープン・全米オープン・全米アマ ― 当時の 4 大メジャーすべてを制覇しました。後に「**グランドスラム**」と呼ばれるこの偉業を、彼はただ一人成し遂げた人間として今も歴史に立っています。しかも驚くべきことに、ジョーンズは **生涯一度もプロにならなかった**。本業は弁護士で、ゴルフはあくまでアマチュアとして、片手間に戦い続けた末の頂でした。そして絶頂の真っ只中、わずか **28 歳で競技から退きます**。その後、彼はジョージア州オーガスタに自らの理想のコース ― **オーガスタ・ナショナル GC** を造り、**マスターズ・トーナメント**を創設しました。賞金にも名声にも縛られず、ルールと礼節を何より重んじた「ゴルフの紳士」。その短くも完璧なキャリアと、コースを離れてからの後半生を辿ります。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1902 | 3 月 17 日、米ジョージア州アトランタ生まれ。東レイク (イーストレイク) GC の向かいで育つ |
| 1908 | 6 歳前後でゴルフを始める。正式なレッスンは受けず、東レイクのプロ、スコットランド人スチュワート・メイデンのスイングを真似て覚える |
| 1916 | 14 歳でジョージア州アマチュア選手権優勝。同年、全米アマチュア選手権 (メリオン) に当時最年少クラスで初出場し準々決勝へ |
| 1923 | 全米オープン (インウッド CC) でプロのボビー・クルックシャンクをプレーオフで破り、メジャー初優勝。芽の出ない「7 年の痩せた歳月」を抜け「7 年の肥えた歳月」が始まる |
| 1926 | 全英オープン・全米オープンを同年制覇 ― アマチュアとして史上初の「大西洋両岸ダブル」。帰国時、ニューヨークの紙吹雪パレードで迎えられる |
| 1927 | 全英オープン (セントアンドルーズ) で連覇。初日にコースレコードの 68 を記録 |
| 1930 | 全英アマ (セントアンドルーズ)・全英オープン (ホイレーク)・全米オープン (インターラーケン)・全米アマ (メリオン) を同年制覇 ― 史上唯一の「年間グランドスラム」 |
| 1930 | 11 月 17 日、28 歳で競技ゴルフから引退を表明。本業の弁護士業に戻る |
| 1931 | 映画短編シリーズ『How I Play Golf』をワーナー・ブラザースで撮影。同年、オーガスタの土地を取得 |
| 1933 | 建築家アリスター・マッケンジーと共同設計した オーガスタ・ナショナル GC が完成 |
| 1934 | オーガスタ・ナショナル招待 (後のマスターズ) を創設。第 1 回大会に引退後初の競技として出場 |
| 1948 | 8 月、東レイクでの最後のラウンドを最後にゴルフを完全に離れる。脊髄の難病 脊髄空洞症 (syringomyelia) の症状が顕在化 |
| 1955 | 全米ゴルフ協会 (USGA) が、彼の名を冠した ボビー・ジョーンズ賞を創設 |
| 1958 | スコットランド・セントアンドルーズの自由市民の称号を授与される (米国人としてはベンジャミン・フランクリンに次ぐ 2 人目) |
| 1971 | 12 月 18 日、アトランタで死去 (享年 69)。訃報がセントアンドルーズに届くと、プレー中のゴルファーが手を止め、クラブハウスの旗が半旗に掲げられた |
| 1974 | 世界ゴルフ殿堂入り ― 創設初年度の殿堂入りメンバー |
弁護士を本業とし、アマチュアのまま頂点を極め、絶頂で去り、コースを「造る側」へ回った ― ゴルフ史で唯一無二の軌跡です (The Open (R&A) / Bobby Jones 公式)。
1930 年、28 歳のボビー・ジョーンズは、当時の 4 大メジャーを わずか 4 ヶ月の間に次々と制覇していきました。プレー順とともに、その軌跡を辿ります。
この偉業に、スポーツ界は当初ふさわしい呼び名を見つけられませんでした。やがて記者で友人でもあった O・B・キーラーがブリッジ用語になぞらえて「グランドスラム」と名付け、この言葉がゴルフ史に刻まれます (Bobby Jones 公式 / The Open (R&A))。当時のメジャーは現在の 4 大会 (マスターズ・全米オープン・全英オープン・全米プロ) とは異なり、両国のオープンとアマチュア選手権の 4 つを指しました。プロ選手権を含む現代基準とは枠組みが違うものの、同一年に当時の最高峰 4 つをすべて獲るという達成は、今日まで誰一人並んでいません。
競技を退いたジョーンズは、ゴルフを「戦う」立場から「造る」立場へと移していきました。
1931 年、彼はジョージア州オーガスタにあった旧プランテーションの土地に出会い、理想のコースを造る計画を立てます。ウォール街のクリフォード・ロバーツと組み、名コース設計家 アリスター・マッケンジーを迎えて設計に着手。1933 年、彼の夢だった オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブが完成しました。
そして 1934 年 3 月、ジョーンズはこのコースで オーガスタ・ナショナル招待トーナメントを開催します。これが後の マスターズ・トーナメントです。第 1 回大会には、引退後初の競技ゴルフとしてジョーンズ自身も出場しました。以後も彼は招待選手として 12 回マスターズに姿を見せましたが、それはあくまで エキシビション (記録に残さない参加) であり、自らの名声で大会の格を高めるためのものでした (The Open (R&A))。
オーガスタ・ナショナルとマスターズは、ジョーンズが現役を退いた後にゴルフ界へ遺した最大の贈り物となりました。今日、世界中のゴルファーが憧れるこの聖地は、一人のアマチュアの夢から生まれたものです (Masters 公式)。
| 項目 | 数字 | メモ |
|---|---|---|
| 当時基準のメジャー優勝 | 13 勝 | 全米アマ 5・全米オープン 4・全英オープン 3・全英アマ 1 |
| 全米アマチュア優勝 | 5 回 | 歴代最多記録 |
| 全米オープン優勝 | 4 回 (1923・1926・1929・1930) | ウィリー・アンダーソン、ベン・ホーガン、ジャック・ニクラスと並ぶ歴代最多タイ |
| 全英オープン優勝 | 3 回 (1926・1927・1930) | 出場わずか 4 回中 3 勝 |
| 1930 年「グランドスラム」 | 当時の 4 大メジャーを同年制覇 | 史上唯一・今日まで誰も並んでいない |
| メジャー出場と勝率 | 31 出場中 13 勝・27 回トップ 10 | 出場のほとんどで上位 |
| プロ転向 | 生涯なし | 賞金を一度も受け取らないアマチュアを貫いた |
| 競技引退 | 1930 年・28 歳 | 絶頂での引退 |
| 世界ゴルフ殿堂入り | 1974 年 | 創設初年度メンバー |
ジョーンズは弁護士を本業とし、ジョージア工科大学を卒業、ハーバードで英文学、エモリーで法学を修め、30 歳になる前に弁護士資格を取得しています。ゴルフは生涯「片手間のアマチュア競技」でした。それでいて 1923〜1930 年の 8 シーズンでメジャー 13 勝という記録は、1973 年にジャック・ニクラスが現代メジャーの枠組みで上回るまで、誰にも破られませんでした (The Open (R&A) / Bobby Jones Major Wins)。
ボビー・ジョーンズが今なお敬愛される最大の理由は、勝利の数ではなく その振る舞いにあります。
最も有名な逸話は、ある全米オープンでのこと。深いラフで構えた際、ジョーンズは自分のボールがほんのわずかに動いたと感じ、誰も見ていないにもかかわらず 自らペナルティの 1 打を申告しました。その 1 打が響いて優勝を逃したとも言われます。称賛されたジョーンズは「それを褒めるなら、銀行強盗をしなかった人間を褒めるようなものだ」と語ったと伝えられます。ルールを守るのは当然であり、賞賛されることではない ― それが彼の信念でした。
この精神を讃えて、全米ゴルフ協会 (USGA) は 1955 年に ボビー・ジョーンズ賞を創設しました。これは USGA の最高栄誉で、スポーツマンシップ・ゲームとルールへの敬意・寛容の精神・フェアプレー・自制心、そして時に犠牲を厭わぬ姿勢を体現した人物に贈られます (USGA: Bob Jones Award)。
若い頃のジョーンズは、実は短気で、ミスショットにクラブを投げることもある激情家でした。それを生涯をかけて律し、「氷のように冷静で、誰よりも礼儀正しいチャンピオン」へと自らを作り変えたところに、彼の本当の偉大さがあります。1958 年、スコットランドの聖地セントアンドルーズは彼に 「自由市民」の称号を授けました。米国人でこの栄誉を受けたのは、彼以前にはベンジャミン・フランクリンただ一人でした (The Open (R&A))。
コースを離れたジョーンズの後半生は、静かな闘いの日々でした。
1948 年、彼は脊髄に空洞ができる難病 脊髄空洞症 (シリンゴミエリア=syringomyelia) を発症します。激しい痛みと、進行する麻痺をもたらすこの病により、彼は同年 8 月、本拠地・東レイク GC での最後のラウンドを最後にクラブを置きました。その後の人生で、彼は 脚の装具から杖、歩行器、車椅子、そして寝たきりへと少しずつ自由を奪われていきます。それでもジョーンズはユーモアと品位を失わず、弁護士業を続け、自らの哲学を綴った著書を遺しました (Bobby Jones CSF)。
1971 年 12 月 18 日、ジョーンズはアトランタで 69 年の生涯を閉じます。訃報がスコットランドのセントアンドルーズに届くと、オールドコースでプレー中のゴルファーたちは一斉に手を止め、クラブハウスの旗は半旗に掲げられました。後にセントアンドルーズは、オールドコースの 10 番ホールに「ボビー・ジョーンズ」の名を冠しています。
9 歳で出会ったゴルフを生涯アマチュアとして愛し、頂点で潔く去り、聖地オーガスタを遺し、ルールと礼節の規範を後世に手渡した ― ジョーンズの物語は、「勝つこと以上に、いかに振る舞うか」を問い続ける、ゴルフという競技の良心そのものとして生き続けています。1974 年、世界ゴルフ殿堂の創設初年度メンバーとして殿堂入りを果たしました (Bobby Jones 公式)。
1930 年に当時の 4 大メジャー ― 全英アマチュア・全英オープン・全米オープン・全米アマチュア ― を同じ年にすべて制覇したことを指します。現在の 4 大メジャー (マスターズ・全米オープン・全英オープン・全米プロ) とは枠組みが異なり、当時は両国のオープンとアマチュア選手権がメジャーとされていました。同一年の 4 冠制覇は史上ジョーンズただ一人で、今日まで誰も並んでいません。
ジョーンズは弁護士を本業とし、ゴルフはあくまでアマチュア競技として戦いました。賞金を一度も受け取らず、ジョージア工科大学・ハーバード・エモリーで学び、30 歳になる前に弁護士資格を取得しています。アマチュアのまま当時のプロ最強選手たちを破り続けたことが、彼の偉業をいっそう際立たせています。
1930 年にグランドスラムという絶頂を極めた直後の 11 月、ジョーンズは競技ゴルフからの引退を表明しました。本業の弁護士業に専念するためで、コースを去った後はオーガスタ・ナショナル GC の建設とマスターズの創設に情熱を注ぎました。
ジョーンズは引退後、設計家アリスター・マッケンジーと共同でオーガスタ・ナショナル GC を造り (1933 年完成)、1934 年に同コースで「オーガスタ・ナショナル招待」を開催しました。これが後のマスターズ・トーナメントです。第 1 回大会には自身も出場し、以後も招待選手としてエキシビション参加し大会の格を高めました。
ジョーンズは 1971 年に逝去しており現在の試合参加がないため、自動更新の選手データページは用意していません。本記事が事実上のプロフィールページです。最新選手のデータは /golfer/ 各ページをご覧ください。
最終更新: 2026-06-04