甲子園のマウンドで優勝旗を掲げた18歳のエースが、なぜグリーンの上で「日本ゴルフ史上最強」と呼ばれる男になったのか。尾崎将司――愛称「ジャンボ」。プロ野球・西鉄ライオンズを飛び出してゴルフに転身し、日本ツアー史上最多の**94勝**、賞金王**12回**を打ち立てました。ロングヘアにサングラス、豪快な飛ばし、そして40代を過ぎてからむしろ強くなる異次元の勝負強さ。弟・健夫(ジェット)、直道(ジョー)との「尾崎3兄弟」は世界に類を見ない一家でした。2025年12月にこの世を去り、翌2026年に日本ゴルフ殿堂入り。一人の野球少年が日本ゴルフの黄金期そのものになった生涯を、年表と名場面で振り返ります。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1947 | 1月24日、徳島県海部郡に生まれる |
| 1964 | 海南高校(徳島)のエースとして春の選抜高校野球で初出場初優勝 ― 決勝で尾道商を破る |
| 1965 | 投手として西鉄ライオンズに入団(プロ野球選手に) |
| 1967 | 野球で結果を出せず退団。「違う世界で勝つ」とゴルフへ転身 |
| 1970 | プロテスト合格、プロゴルファーに転向(23歳) |
| 1971 | 日本プロゴルフ選手権で初優勝 |
| 1973 | 年間5勝を挙げ、初の賞金王。マスターズでT8 |
| 1974 | 日本オープン初制覇。2年連続の賞金王 |
| 1979 | 全英オープンでT10(自己最高に並ぶメジャー成績) |
| 1988 | 賞金王に返り咲き、第2の黄金期へ |
| 1989 | 全米オープンでT6(メジャー自己最高)。世界ランキングTOP10入り |
| 1992 | 賞金王。日本オープン制覇 |
| 1994 | 賞金王。ここから5年連続の賞金王(1994-1998)が始まる |
| 1996 | 9月1日付で世界ランキング最高位の5位に到達 |
| 1998 | 5年連続12回目の賞金王。50歳を超えても頂点に立ち続ける |
| 2002 | 9月、全日空オープン(現ANAオープン)で通算94勝目 ― 55歳での最年長優勝記録は今も破られず |
| 2011 | 世界ゴルフ殿堂入り |
| 2019 | 72歳までツアーに出場し続ける |
| 2025 | 12月23日、大腸がんのため78歳で死去 |
| 2026 | 日本ゴルフ殿堂入り(プレーヤー部門) |
野球で頂点を見た少年が、ゴルフでさらに大きな頂を極めた稀有な生涯でした(Japan Golf Tour Organization、Masashi Ozaki - Wikipedia の脚注に基づく)。
尾崎将司の物語は、ゴルフではなく野球から始まります。1964年春、徳島県立海南高校のエースだった尾崎は、選抜高校野球(春の甲子園)に投手として出場。決勝で尾道商のエースに投げ勝ち、初出場初優勝という快挙を成し遂げました(みんなのゴルフダイジェスト)。
その実力を買われ、1965年に西鉄ライオンズに投手として入団。プロ野球選手としてのキャリアが始まりました(Masashi Ozaki - Wikipedia の脚注: Japan Baseball Daily)。しかし結果が出ず、わずか数年で退団。本人は後年、転身の理由をこう語っています。「野球では負けたけど、違う世界ではあいつを追い抜く。そんな気持ちだった」(ホームメイト ほか)。
野球を捨てた尾崎は独学でゴルフに打ち込み、1970年にプロテストに合格。23歳でプロゴルファーに転向しました。そして翌1971年には早くも日本プロゴルフ選手権を制覇。野球で培った身体能力と勝負勘、そして人並み外れた飛距離が、ゴルフの世界で一気に開花していきます。PGA TOUR の追悼記事も「彼は高校を全国制覇に導き、プロ野球を3年間プレーしてから、ゴルフに転じた」とこの異色の経歴を強調しています(PGA TOUR)。
| 項目 | 数字 | メモ |
|---|---|---|
| 日本ゴルフツアー優勝 | 94勝 | 歴代1位。2位の青木功(51勝)を43勝も引き離す |
| プロ通算優勝 | 113〜114勝 | 国内外すべて含む。日本人ゴルファー史上最多 |
| 賞金王 | 12回 | 歴代最多(1973,74,77,88,89,90,92,94-98) |
| 連続賞金王 | 5年連続 | 1994〜1998。40代後半での偉業 |
| 日本プロゴルフ選手権 | 6回 | |
| 日本オープン | 5回 | |
| 世界ランキング最高位 | 5位 | 1996年9月1日付。TOP10に約200週 |
| メジャー最高成績 | T6(1989全米OP) | 他にマスターズT8(1973)、全英T10(1979) |
| ツアー最年長優勝 | 55歳(2002 ANAオープン) | いまだ破られていない記録 |
尾崎の真の凄みは、若さではなく「40歳を超えてからの強さ」にあります。1994年から1998年まで5年連続で賞金王に輝いたのは、いずれも47歳から51歳の年。普通のアスリートが衰える年齢で、むしろ日本ツアーを完全に支配しました。日本ゴルフ協会(JGA)も殿堂入りの発表で「スランプを経ながら40歳を超えて以降に特に強さを発揮し、55歳の2002年に樹立した最年長優勝記録は、いまだ破られず」と讃えています(Japan Golf Tour Organization)。
一方、世界の舞台では限られた出場にとどまり、PGA TOUR では96試合に出ながら勝利はありませんでした。それでも母国で積み上げた数字は、後続の誰も近づけない領域にあります。
尾崎将司のキャリアの絶頂は、49歳を迎えた1996年でした。この年、尾崎は日本ツアーで荒れ狂うような強さを見せ、シーズンを通じて勝ち続けます。最終戦のゴルフ日本シリーズ日立カップでは4日間で26アンダー(262)という驚異的なスコアで圧勝するなど、年間を通じて手がつけられない状態でした(Masashi Ozaki - Wikipedia)。
その勢いは世界ランキングにも反映され、1996年9月1日付で世界ランキング5位に到達。当時、タイガー・ウッズが台頭する直前の世界ゴルフ界で、日本を主戦場とする選手が世界のトップ5に名を連ねたのは異例中の異例でした。尾崎は1989年から1998年にかけて約200週にわたって世界TOP10入りを続けています(Masashi Ozaki - Wikipedia)。
40代後半でこの位置に立ったという事実こそ、「ジャンボ」が単なる国内のスターではなく、世界基準でも一流であったことの証明です。日本国内では、彼が出場するだけでギャラリーが何重にも取り囲み、テレビ中継の視聴率を押し上げました。PGA TOUR は「彼の一か八かのプレースタイルとカリスマで、日本のゴルフ人気とJGTOの再興に大きく貢献した」と記しています(PGA TOUR)。
尾崎将司を語るうえで欠かせないのが、弟2人とともに築いた「尾崎3兄弟」の物語です。圧倒的な強さをジェット機になぞらえて「ジャンボ」と呼ばれた長兄に続き、次弟・健夫は「ジェット」、末弟・直道は「ジョー」と、3人そろって「J」の愛称で親しまれました(Japan Golf Tour Organization)。
3人はいずれもプロとして成功します。長兄ジャンボの94勝を懸命に追いかけ、ジェットこと健夫はツアー通算15勝、ジョーこと直道は通算32勝を積み上げ、直道は長兄とともに永久シード選手に名を連ねました。賞金王も、長兄が12回なのに対し、直道が1991年と1999年の2回獲得しています。1999年の日本プロでは、直道の優勝の影で2位に長兄ジャンボ、3位に次弟・健夫がつけるという、兄弟で表彰台を独占するシーンも生まれました(Japan Golf Tour Organization)。
2人の弟がゴルフの道に進んだのは、すべて長兄の背中があったからでした。長兄の訃報に際し、末弟・直道はこう惜別の言葉を寄せています。「高校野球で優勝してプロ野球選手になり、尾崎家の家を建て直してくれました。プロゴルファー尾崎直道があるのは、兄貴が野球をやめてゴルフの道に進み、ゴルフを教えてくれたジャンボ尾崎無しでは語れない。感謝しかないです。兄貴ありがとう!」(Japan Golf Tour Organization)。約70年間、3兄弟が同じ職業で歩み続けたのは、世界のスポーツ史を見渡しても稀有なことでした。
ロングヘアをなびかせ、サングラスをかけ、豪快にティーショットを叩く――尾崎将司の姿は、それまで「紳士のスポーツ」というお堅いイメージだった日本のゴルフを、一気に大衆的なエンターテインメントへと変えました。彼が「ジャンボ」と呼ばれたのは、181cm・90kgの恵まれた体格と、そこから生み出される圧倒的な飛距離ゆえでした(Masashi Ozaki - Wikipedia)。
そのスター性はゴルフの枠を超え、1980年代後半にはシングルレコードを発表してオリコンチャートにランクインするほどでした(PGA TOUR)。ギャラリーは彼のプレーを一目見ようと殺到し、「ジャンボ軍団」と呼ばれる若手選手の育成にも力を注ぎました。
そして尾崎を語るとき必ず登場するのが、青木功・中嶋常幸との3強時代――頭文字を取った「AON時代」です。尾崎(O)・青木(A)・中嶋(N)の3人が日本男子ツアーのタイトルを奪い合った1980年代から90年代は、日本ゴルフ史上もっとも熱狂的な黄金期でした(Masashi Ozaki - Wikipedia)。
生涯のライバルにして大親友だった青木功は、2026年の「お別れの会」で発起人代表を務め、弔辞を捧げています(Japan Golf Tour Organization)。2025年12月に78歳で世を去った尾崎は、翌2026年、日本ゴルフ協会が運営する日本ゴルフ殿堂にプレーヤー部門で選出されました。長男・智春氏は「好きなことをしてきたゴルフ人生、一切の悔いはないと話していた父」と、その生き方を振り返っています(Japan Golf Tour Organization)。
日本ゴルフツアー(JGTO)では歴代最多の94勝。これは2位の青木功(51勝)を43勝も上回る圧倒的な記録です。国内外すべてを含めたプロ通算では113〜114勝に達し、日本人ゴルファー史上最多です。最後の94勝目は55歳のときに挙げており、この最年長優勝記録は今も破られていません。
181cm・90kgという恵まれた体格と、そこから繰り出される豪快な飛距離が「ジャンボ(巨大)」の由来です。ロングヘアにサングラスというスタイルとあわせて、日本ゴルフ界きってのスターでした。弟の健夫は「ジェット」、直道は「ジョー」と、3兄弟そろって「J」の愛称で親しまれました。
本当です。徳島・海南高校のエースとして1964年春の選抜高校野球(甲子園)で初出場初優勝を果たし、1965年に西鉄ライオンズへ投手として入団しました。しかしプロ野球では結果が出ず、「違う世界で勝つ」とゴルフに転身。1970年にプロテストに合格し、23歳でプロゴルファーになりました。
尾崎将司(O)・青木功(A)・中嶋常幸(N)の3人が日本男子ツアーのタイトルを争った1980〜90年代を、頭文字から「AON時代」と呼びます。日本ゴルフがもっとも熱狂した黄金期で、尾崎はその中心人物でした。青木功は尾崎の生涯のライバルにして大親友で、2026年のお別れの会で弔辞を捧げています。
2025年に逝去しているため、試合結果やスタッツを自動更新する /golfer/ のデータページは作成していません(試合参加が無いため自動更新の対象外)。本記事が事実上の選手プロフィールページです。現役選手のデータは プロゴルファー検索 からご覧いただけます。
最終更新: 2026-06-04