1977 年 6 月、米国サウスカロライナ州ベイツリー G.C.。樋口久子は LPGA 選手権 (全米女子プロ) を 3 打差で制し、**男女を通じてアジア出身者として初めて、ゴルフのメジャー大会を制覇** しました。岡本綾子が LPGA 賞金女王に輝くより 10 年も前のことです。日本女子プロゴルフ協会 (JLPGA) 創成期の 1 期生としてツアーを切り拓き、通算 69 勝という今も破られない金字塔を打ち立て、引退後は協会会長として後進を育てた ― 文字どおり「日本女子ゴルフ界の母」と呼ばれる人の物語を辿ります。(※樋口久子は引退済みのため、本記事が事実上の選手プロフィールページです。)
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1945 | 10 月 13 日、埼玉県川越市生まれ。愛称「チャコ」 |
| 1960s | プロゴルファー中村寅吉 (1957 年カナダカップ日本優勝メンバー) に師事 |
| 1967 | プロ転向。JLPGA 創成期の「1 期生」としてツアーへ |
| 1968 | この年から 賞金女王。日本女子オープン・日本女子プロも制覇 |
| 1968-1976 | 賞金女王を 9 年連続で獲得 ― 国内女子ツアーを完全に支配 |
| 1976 | コルゲート欧州オープン優勝 (海外ツアー初勝利・6 打差) |
| 1977 | LPGA 選手権 (全米女子プロ) 優勝 ― 男女通じアジア出身者初のメジャー制覇 |
| 1978-1979 | 再び賞金獲得額 1 位。賞金女王は通算 11 回に |
| 1990 | JLPGA ツアー通算 69 勝目を記録 |
| 1996 | JLPGA 会長に就任 (2011 年まで 15 年間) |
| 2003 | 世界ゴルフ殿堂入り ― 日本人ゴルファーとして初 |
| 2011 | 会長退任。以後も顧問・名誉職として女子ゴルフ界を支える |
プロ転向は 1967 年、JLPGA がツアーを本格始動させる黎明期でした。樋口はその最初の世代として日本女子ゴルフの土台づくりに関わり、選手としても圧倒的な強さで時代を牽引しました (JLPGA 公式プロフィール)。
1977 年 6 月 12 日、米国サウスカロライナ州ノースマートルビーチのベイツリー・ゴルフプランテーション。樋口久子はメジャーである LPGA 選手権 (全米女子プロ選手権) で、4 日間トータル 9 アンダー (71-67-72-69=279) をマークしました。パット・ブラッドリー、サンドラ・ポスト、ジュディ・ランキンら米国の強豪を 3 打差 で抑えての優勝です (1977 LPGA Championship / LPGA 公式選手ページ)。
この勝利の歴史的な意味は計り知れません。男女を通じて、アジア出身の選手がゴルフのメジャーを制したのは樋口が史上初。男子でアジア出身者がメジャーを勝つのは、2009 年全米プロのヤン・ヨンウン (韓国) まで実に 32 年も待たねばなりませんでした (Wikipedia: Hisako Higuchi)。
岡本綾子が LPGA Tour 賞金女王に輝くのは 1987 年、宮里藍が世界ランク 1 位になるのは 2010 年。樋口の 1977 年の快挙は、それらすべてに 10 年・30 年先行する 出来事でした。日本の女子ゴルフが世界に通用することを、誰よりも早く証明した一打だったのです。
| 項目 | 数字 |
|---|---|
| JLPGA ツアー通算優勝 | 69 勝 (歴代最多・2 位は涂阿玉の 58 勝) |
| LPGA Tour (米) 通算優勝 | 2 勝 (1976 コルゲート欧州オープン・1977 LPGA 選手権) |
| メジャー優勝 | 1 勝 (1977 LPGA 選手権) ― アジア出身者初 |
| JLPGA 賞金女王 | 通算 11 回 (うち 1968-1976 の 9 年連続 を含む) |
| 全米女子オープン 最高位 | 13 位タイ (1976) |
| 世界ゴルフ殿堂入り | 2003 年 ― 日本人初 |
| プロ転向 | 1967 年 (JLPGA 1 期生) |
通算 69 勝 は、JLPGA の歴史で誰も超えていない最多勝記録です (JLPGA 国内通算優勝回数)。賞金女王 9 年連続も突出した記録で、1977 年に大迫たつ子へ一度明け渡したものの、翌 1978-79 年に再び頂点へ返り咲き、通算 11 回を数えました。数字だけ見ても、1960 年代後半から 1980 年代にかけての日本女子ツアーが「樋口の時代」だったことが分かります。
樋口久子を語るとき、選手としての記録と同じくらい重要なのが、日本女子ゴルフ界そのものを育てた組織人としての功績 です。
1967 年にプロ転向した樋口は、JLPGA が産声を上げる創成期の 1 期生でした。ツアーの試合数も賞金も今とは比べものにならないほど小さかった時代に、自ら勝ち続けることで「女子プロゴルフは見るに値する競技だ」という認識を世間に広げていきました。
そして 1996 年、樋口は JLPGA 会長に就任 します。以後 2011 年まで 15 年間にわたって協会を率い、ツアーの拡大・賞金規模の向上・若手育成の仕組みづくりに尽力しました。彼女が会長を務めた時代は、宮里藍・横峯さくららの登場で女子ゴルフ人気が爆発した時期と重なります。選手としての先駆者であり、組織のトップとしても次世代が活躍できる土壌を整えた ― だからこそ樋口は 「女子ゴルフ界の母」 と呼ばれます (JLPGA 公式)。
会長退任後も顧問・名誉職として協会を支え続け、その名は JLPGA ツアーの大会「樋口久子 三菱電機レディスゴルフトーナメント」にも冠されています。
樋口は、日本男子ゴルフ界の草分けである 中村寅吉 に師事しました。中村は 1957 年のカナダカップ (現ワールドカップ) で小野光一と組み、日本に初の世界タイトルをもたらした名手です。その薫陶を受けた樋口は、独特のフォームながら正確なショットメイクと、ここ一番での勝負強さを身につけました。
身長 163cm。豪快な飛ばし屋というより、コースマネジメントとショートゲーム、そして「勝ち切る精神力」 で勝負するタイプでした。9 年連続賞金女王という記録は、爆発的な一週ではなく、毎年シーズンを通して安定して上位に居続けた証でもあります。
愛称は「チャコ」。海外メジャーを制した 1977 年当時、英語も流暢ではない中で単身渡米して米国トップ選手と渡り合った姿は、後に続く岡本綾子や宮里藍ら「海を渡る日本人女子ゴルファー」の原型となりました。競技を退いてからも解説・指導・協会運営と多方面で活動し、日本女子ゴルフの歴史そのものを体現する存在であり続けています。
1977 年の LPGA 選手権 (全米女子プロ) 優勝が、男女を通じてアジア出身の選手による史上初のゴルフメジャー制覇だったためです。男子でアジア出身者がメジャーを勝つのは 2009 年全米プロのヤン・ヨンウン (韓国) まで待つことになります。
JLPGA ツアー史上最多の優勝記録で、2 位は涂阿玉 (台湾出身) の 58 勝です。半世紀近く破られていない金字塔です (JLPGA 公式)。
通算では 11 回です。このうち 1968 年から 1976 年までの 9 年間は連続で賞金女王に輝いており、この『9 年連続』が特に有名な記録です。1977 年に一度大迫たつ子へ明け渡しましたが、1978-79 年に再び 1 位となり、通算 11 回となりました。
JLPGA 創成期の 1 期生として選手で時代を築き、引退後の 1996-2011 年には協会会長として 15 年間ツアーを率いたためです。選手・指導者・組織のトップという三役で日本女子ゴルフを育てました。
現在は引退済みのため、試合結果やクラブセッティングを自動更新するデータページは作成していません。本記事が事実上の選手プロフィールページです。現役選手のデータは プロゴルファー検索 からご覧いただけます。
最終更新: 2026-06-04